「本は物体ではない。持続して展開される論点やナラティヴだ」 @wired_jp

サンフランシスコ市内からクルマで20分ほど南に下った海辺の町パシフィカに暮らすケリー。『ホールアースカタログ』『WIRED』の元編集者らしく、DIY精神と遊び心に富んだ書斎だ。家全体が実験精神に満ちた遊び場というほうが正しいか。


読書はソーシャルな行為

ぼくはご覧のとおり、本に囲まれて暮らしている。ただ読者としての購買傾向は変わってきた。アート本や写真集はいまもフィジカルで買い続けているけれど、テキストベースの本はKindleで読むことが多くなった。読書のし方も変わった。ぼくは読み物とインタラクトしたい動的なタイプの読者なんだ。書き込みをしたいし、カット&ペーストしたいし、読んだものを「シェア」したい。タブレットの登場によって、こうしたことがより簡単になった。つまり読書は「ソーシャルな行為」になったと言える。

雑誌と本の狭間で

またタブレットは、これまでの雑誌や本が埋めることのできなかったスペースを占める可能性がある。ウェブ上での読者の興味の持続時間は数分だ。一方で本を1冊読み終えるとしたら10時間近い時間が必要になる。しかし、これまでは、例えば映画を1本観るくらいの時間に読みきれる本はあまりなかった。雑誌の記事より長くて、本より短いもの、そこにビジネスチャンスはあるだろう。

読み書きの黄金時代

わたしたちは文章に囲まれて過ごしている。テキストというのは、人類が考案した最も優れた技術のひとつだ。多くの場合、人は自分が「読む」という行為をしていることにすら気が付かない。ゲームにだって文章は登場するし、ツイッターだって一種の「リーディング」だ。1980年代、コンピューターが登場したとき、多くの人が読書や書くという行為がなくなると言った。けれどもいま、人はかつてより多くのものを読んでいるし、より多くのものを書くようになった。電子通信は「書く」という行為を甦らせたんだ。

イメージとテキストの融合

スクリーンの解像度がこれだけよくなったいま、これから起きる現象として、画像や動画、つまりイメージとテキストの融合が考えられる。「観る」と「読む」の境界線が消えていく。『WIRED』が雑誌として初めてやったことのひとつは、画像の上に文字を載せるということだった。それまでは文字を載せるのには印刷上も、デザイン上も、技術が必要だったしコストも高かった。「読みづらい」との批判もあったけれど、いつか人は慣れてしまったし、コストもかからなくなった。そう考えると「読むテレビ」や「観る本」が登場するのは自然の流れなんだと思う。


技術のコスト

フォーマットが変わると「本とはなんだ」という再定義が必要になってくる。「本」は、その物体のことを指しているわけではない。「本」とは、持続して展開される論点やナラティヴ(語り/ストーリー)のことだ。雑誌も同様だ。ぼくが考える「雑誌」とは、アイデアや視点の集合体を、ç