編集者は表現者ではない |LEXUS ‐ VISIONARY(ビジョナリー)

2017.09.29 FRI

斎藤和弘
Kazuhiro Saito

編集者は表現者ではない

かつて『GQ JAPAN』や『VOGUE NIPPON』といったライフスタイル誌、モード誌の編集長を歴任してきた斎藤和弘氏が現代のラグジュアリーについてつづる連載。第4回目は生業としてきた編集者についての持論を説き、その役割について論じます。

(読了時間:約4分)

Text by Kazuhiro Saito
Photograph byTetsuya Yamakawa
ART&DESIGN SKILL

窓際族による赤字事業の再建

私の根底にはイデオロギーとモダニズムが脈々と流れていますが、『BRUTUS』と『Casa BRUTUS』、『GQ』と『VOGUE JAPAN』といった雑誌の編集者として、読者に何を伝えようとしてきたのか。そこにはある種のイデオロギーとモダニズムは含まれていました。しかし、そんな時代遅れの考え方(私にとっては重要ですが)をわかりやすく誌面全体に表してしまったら、私はクビになっていたでしょう。

『BRUTUS』の編集長になる直前までの約3年間、私はいわゆる窓際族でした。いや、窓枠ギリギリの状況だったかもしれません。それ以前の私は『POPEYE』の副編集長でしたが、そもそも窓枠になった経緯としては、会社から『POPEYE』を週刊誌にしたいというオーダーを受けたことに起因します。週刊誌として1年半くらい発行し続けた『POPEYE』はまったく売れず、年間十数億の赤字事業となってしまい、私は副社長に呼び出されたその日から窓際族になったのです。

これで私の雑誌の編集者人生は終わりだ。そう覚悟を決めました。ところが、ある日突然、『BRUTUS』の編集長をやれという耳を疑う声が掛かったのです。それを聞いた私は、会社は『BRUTUS』を廃刊にするつもりだと思いました。当時の『BRUTUS』は毎年5億円ほどの赤字事業だったので、そうでなければ窓枠族の私に頼むはずがありませんから。

私は男性誌に括られていた『BRUTUS』の編集長を引き受けるにあたり、生き残るためにできることを徹底的に分析しました。その中で、当時に適した“あるべき世界”が存在することに気づき、ある雑誌を参考にしました。それは女性誌の『フィガロ』です。

この連載の第1回目に、私は現代に「あるべき姿の男論」を貫いている雑誌はないと綴りました。それを読んでくださった方はお気づきかもしれませんが、私も「あるべき姿の男論」から手を引いた編集者なのです。新たに女性読者を取り込もうとして、あからさまに「こうあるべきだ」という主義主張をやめて、今ある世界にどうしたら読者の欲望が向くのかということを考えるようになりました。

『BRUTUS』を再建するために私が取り組んだこと。それは、コミュニケーションの改善と編集者の業務の幅を拡大することでした。

四文字熟語の体言止めがほとんどだった表紙タイトルを、女性誌を見本に「誰が何をどうする」というわかりやすい主語と述語の関係に変え、企画に専念してきた編集者にタイアップ広告も任せるようにしました。それらによって、年間5億近い赤字は初年度でほぼゼロになり、2年目には2,3億の黒字に転換させることができたのです。ただ、それまでの『BRUTUS』とまったく異なる本の作り方をしたものだから、周りからは「あいつは魂を売った」など、ひどい言われようをされました。でも、それを実践したことでバカ売れしましたし、私が去った今も『BRUTUS』が生き残っているのは事実です。

モノの見方を揺さぶり続ける

これは誤解を招く発言かもしれませんが、極論を言えば、私は何か表現したいことを持ち合わせていません。ある種の表現論のような話をすると、私には体の奥底から突き動かされる衝動や表現の欲求がないのです。

この世の中で、沸々と湧き上がってくる欲求を持つ人間がいるとすれば誰なのか。それは芸術家です。そういったアーティストと呼ばれる才能を探してくるのが、編集者としての仕事の一部でした。だから、自分の中に表現の欲求というものは何ひとつなかったのです。

では一体、私は編集者として何がしたかったのでしょうか。それは、世の中のパラダイムをズラす。あるいは、ひっくり返すということです。

読者に向けて、「あなたはこのような常識で生きていませんか? でも、その価値判断の方法論は違いませんか?」というモノの見方に対する問いを投げかける。そのためのテーマと切り口を考えることが編集者の仕事です。テーマはイタリア料理やモダン建築でも何だって良いわけで、モノの考え方の様式になるものを揺さぶりたい。ただそれだけなのです。

私は、世の中の気持ち悪さをズラしたいという気持ちをつねに持っていますが、それは芸術家の根底にある表現の欲求とは異なるものです。表現とは個が立ち、何かが表出しているという状態のことを意味しますから、それゆえに、編集者は表現者ではありません。

言うなれば、編集者はコーディネーターです。制限された時間と予算、そして人がいなければ仕事が成立しません。逆に言えば、編集者は制約があってこそ、はじめてモノを考えることができます。ちなみに、あり余る時間とお金を必要としているのは芸術家です。なぜならば、彼らには表現したい欲求が山のようにあるのですから。

情報源: 編集者は表現者ではない |LEXUS ‐ VISIONARY(ビジョナリー)

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