言葉を失い、エディットの時代へ |LEXUS ‐ VISIONARY(ビジョナリー)

2017.06.30 FRI

斎藤和弘
Kazuhiro Saito

言葉を失い、エディットの時代へ

かつて『GQ JAPAN』や『VOGUE NIPPON』といったライフスタイル誌、モード誌の編集長を歴任してきた斎藤和弘氏が現代のラグジュアリーについてつづる連載。今回は言葉の普遍的な役割と、現代のモノづくりの特徴を考える。

(読了時間:約4分)

Text by Kazuhiro Saito
Photograph by Tetsuya Yamakawa
ART&DESIGN CREATIVE FASHION TREND

見るべきほどのことは見つ

私は30代半ばまで小説の熱心な読者でした。純文学、海外文学からエンターテインメントまで、多くの作品を読みました。最後に読んだのは、エルモア・レナードの犯罪小説やロバート・ラドラムのスパイ小説などでしたが、ぱったりと小説の読者をやめることになります。誰かが作った話は面白いですし、そこにはある種、世の中の真実が描かれています。たとえるならば、やめた理由は平家物語的な世界でしょうか。平知盛の「見るべきほどのことは見つ」という有名な台詞がまさにその心境です。傲慢な言い方をすると、これって神の視点、悲劇のドラマトゥルギーなんですけどね。

小説を読まなくなった理由がもうひとつあります。それは本を所有していることにうんざりしてしまったことが大きいです。私は30代半ばのときに “大人の家出”をするのですが、その瞬間に約2000冊の蔵書をすべて売り飛ばしました。学生時代から買い集めたものを古本屋さんに出張買取してもらって、メーター換算でも40万円くらいになりました。蔵書を持たなくなってからというのは実に身軽ですよ。人生これほど軽くなることがあるのかと。逆に、蔵書はなんだか重武装だと感じるようにもなりました。

それ以降、本をまったく読まなくなったわけではないのですが、基本は新書しか読みません。フィクションを読まないので、ジャンルは評論やドキュメンタリー。ほとんどの本は読んだら捨てます。ただ、ひとつだけ悩んでいるのは高い本の扱いです。この本を読もうと思うと、定価関係なしに買ってしまうのですが、最近買った松浦寿輝の『明治の表象空間』という本は5400円もしました。読後をどうしようかと悩む本はほかにもたくさんありますが、私が欲しい本はなぜかどれも高いのです。

いつだって世の中のロゴスは言葉

本には活字が付きものですが、最近は活字が失われてきていると感じるシーンが多々あります。それはウェブサイトやSNSが動画の世界になっているということです。今やほとんどのトップ画面がムービーでしょう。

活字は言い換えると言葉。言葉を失うとロジックが成立しなくなります。いつだって世の中のロゴスは言葉なのです。静止画や動画といったビジュアルは演出やストーリーを作ることはできますが、ロジックを組み立てることはできません。それができるものは言葉以外に存在しないのです。

インターネットには、ウェブページをより高い順位に表示させることを目的に行うSEOという取り組みがあります。私はGoogleに頼んだつもりはないのですが、世の中にある何億という言葉を等価に扱ってはならないと考えます。私にとって、検索とは無人格なものです。人格がある言葉のほうが強いに決まっていますが、インターネットの世界では、無人格の言葉のほうが民主的だという理屈があるように思えてなりません。

言葉は校閲を経て、そこで述べられていることが正しいかどうかを調べることができますが、ムービーにそれはありません。たとえば、カメラである風景の一部分しか切り取っていなければ、フレームアウトされた横にあるものが何なのかが分からない。言葉で説明する場合、横にあるものを描写しない限りはそのテキストが成立しませんが、ムービーにはそれを読み解くためのリテラシーがまだ存在しないと、私は感じています。映像論理学、ビジュアル論理学といったロジックが存在しているのであれば話は別なのですが、私が知る限りはまだ誰も意識していません。

インターネット上の“あれ”は見せたいものだけを撮っています。だから、私にはネタ(作り話)でしかないのです。今はゼロからモノを作るよりも解釈の時代に入っています。言い換えればエディットの時代です。昔あったモノを引っ張り出し、どう組み合わせて違うモノとして見せるのか。つまり、解釈を重視してモノが作られているのです。

エディットの時代とは無縁のアールブリュットたち

ファッションにも同じことが言えます。ゼロからモノを作る時代がどこで終わったのかというと、イブ・サンローランのあたりで終わっているのかもしれません。その後はリメイクやエディットが主流になってきました。その象徴的な存在は、ルイ・ヴィトンのレディース アーティスティック・ディレクターであるニコラ・ジェスキエール。彼はアーカイブを掘り起こして現代に落とし込むエディットの天才です。逆にいえば、彼はゼロからモノを作ることに困るかもしれませんが。

19世紀や20世紀前半の“感情”の時代、つまり喜怒哀楽が表現される時代はもう終わりました。エディットとは、これが気持ちいい、かわいい、という“気分”をもとに作られていますが、そういった気分の象徴的な作家が20世紀初期に存在していました。芥川龍之介です。芥川が自殺の動機として記した「ぼんやりした不安」、これは気分以外の何物でもありません。ですから、ある種のアーティストは時代を先取りしていたといえるでしょう。

現代はさまざまな情報をキャッチしやすいがゆえに、エディットの時代から抜けることは難しい状況にあります。ただし、つねにそことは無縁の場所でゼロからモノを作ることができる人たちがいます。それはアールブリュットの人たちです。言い換えれば、情報を遮断できている人たち。その最たる例は、草間彌生さんですよ。彼女は自分の世界が成立していて、その中から一歩も外に出ることなく作品を作り続けています。

あなたは最近、すごいもの、パワーのある表現と出会ったことがありますか?

情報源: 言葉を失い、エディットの時代へ |LEXUS ‐ VISIONARY(ビジョナリー)

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