ローレンス・レッシグ曰く、Google Books和解は「狂気への道」

何百万冊というみなし子本の内容をデジタル化するという、Google Bookと著者協会との和解に声高に反対することが最もありそうにない人物といえば、ハーバード大学法科教授でフリーカルチャー支持者であるローレンス・レッシグ。The New Republic誌に書いた長文のエッセイの中で、レッシグはこの和解について、「狂気への道」であり「文化を窒息させる」ものであると指摘している。ただし、みんなが考えるような理由ではない。

レッシグは、主たる問題は和解自体や、Googleではなく、著作権法に関わるものだと信じている。そして、165ページにわたる和解案の難解な文面を見た後、彼はかつてないほどに、著作権法をインターネット時代に沿ってオーバーホールする必要があるという確信を得た(彼が以前にも掲げたテーマである)。問題の要点を以下に挙げる。

この契約は、ページ単位さらには文単位でコントロールすることが可能な世界を構築するものである。そこは、出版された一語一語を残らずライセンスできる世界である。これは、原子力についての古いスローガンの反対である、「残らず測る、測るのは安いから」。知識へのアクセスを、映画やお菓子屋や野球場へのアクセスと同じように売り始めるのである。われわれが作っているのはデジタル図書館ではなく、デジタル書店、スターバックスのないBarnes & Nobleだ。

書籍がさまざまな部分に分けてライセンスできるようになることで、現在映画で起きているのと同じ問題に遭遇することを、レッシグは恐れている。ドキュメンタリーフィルムを例に挙げ、あらゆる楽曲や保存映像クリップの権利を再取得する必要があるために、デジタル化がほほ不可能になっていることを指摘している。これは、映画の時代になる以前のライセンス形態の遺物である。一つの作品を構成する要素ごとに個別の著作権が永久に与えられているため、後にデジタル化したり、共有の文化の一つとして配布することが困難になっている。今日まで、書籍は殆どの場合単一の作品として扱われていたのだ。

しかし、Google Booksの和解案の表現は、書籍を構成要素に分けることを示唆するものだ。その結果、レッシグがやったように、病院の待合室でわが子のどこが悪いのかを調べようと、iPhone上の医学書を読んでいると、重要な図表が抜けていて、それはライセンスが異なるためである、といったことが起きる。彼はこう語る。

リアルな図書館、リアルな世界でのアクセスは、ページ(あるいはページ内の画像)単位では勘定されない。アクセスは書籍(または雑誌、CD、DVD)のレベルで勘定される。

レッシグは、Googleの和解案がそれほど悪いとは考えていない。むしろ、保護されている作品についてもその20%を無料でアクセス可能にすることについて、Googleに一定の賛意を表している(Googleは和解案が、著者や一般の人たちにとって好条件であることを強く主張していて、 変更は最小限にしたいと考えている。)レッシグがこう書いている。

この和解には賞賛すべき部分がたく

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