そしてしばらくしたら、急にその雲が赤紫とも茜色とも、何とも言えない色に変って、風がざあっと吹いたと思ったら、何百とも知れない千鳥が、どこからか一斉に飛び立ったんだ

 何日かして会社の人が、不思議な経験をした、と私に話をした。彼は鎌倉に住んでいるのだが、あの日曜日、七里ヶ浜の先まで魚釣りに出かけていたそうである。「輝くほどよく晴れた青空だったよね」と彼は言った。私が立原氏の庭から眺めた空のことである。

「そう、そうなんだよ。波も穏やかでね、いい気持で岩の上にいて、夕景になって江の島の方を見たら、美しい雲が光って、こんなきれいな夕焼け雲は見たことない、とびっくりしたんだよ。そしてしばらくしたら、急にその雲が赤紫とも茜色とも、何とも言えない色に変って、風がざあっと吹いたと思ったら、何百とも知れない千鳥が、どこからか一斉に飛び立ったんだ。それが、発表された川端先生の死亡推定時刻に合うんだよ。あの時なくなったんだと、僕は思いますね……」

 先生は夕焼けの好きな方であった。美しい、あまりに美しい夕映えが先生の心を誘い、あの、立原氏の庭で見た細く輝いた雲が、来迎の光ともなって、永遠の安息へ先生を導いたのであろう。無数の千鳥のはばたきも、先生にはふさわしいお供であった。

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川端康成 瞳の伝説

伊吹 和子
いぶき かずこ 編集者 1929年 京都市に生まれる。 『われよりほかに──谷崎潤一郎最期の十二年』により日本エッセイスト・クラブ賞。 掲載作はPHP研究所より平成九年(1997)刊の同題単行本に拠り加筆訂正。昭和三十六年(1961)より四十七年(1972)の逝去までを担当した川端康成の素顔を描くとともに、かつて「編集者」が担っていた協働作者たるの意義を伝えている。